2011年2月7日

生まれ変わりの仕組みと、死から次の誕生に至るまでの中間生について

リサーチ・リーディング No.1875

前回に引き続き生まれ変わりの仕組みについてお伺い致します。ヒトが一つの人生を終えて、次の人生を始めるまでを、中間生という風に定義させて頂きたいと思います。そこで今回は主に中間生の仕組みについてお伺い致します。

【質問1
死から次の誕生に至るプロセスの概略について
死から次の誕生に至るまでのプロセス(中間生)について、一体どのようなプロセスで何が行われるか、その概略をお答え下さい。

【ソース】
中間生には、ヒトという、地上で動物同様の形態を取って行われる生活と、同程度の重要なものが含まれています。単に一つの人生と今一つの人生との間というものではありません。もっと積極的な意義や、あるいは効果といったものも、そこには見られます。地上生活側から見れば、中間生は影のように捉えられますが、それは絶対的な捉え方ではありません。向こう側からこちらの世界を捉えれば、こちらの世界こそ影だという印象を、向こうでは受けるほどです。どちらがどちらのために在るというものではなく、対等に近いと言えます。それで先ず、中間生には積極的なそれなりの意義や効果があるという事をお伝えしました。

ある見方によると、地上での人生と人生の間には、他の惑星に滞在して別の学びをしていたというものがあります。また別の見方によると、いわゆる霊界と言われる領域において、修行をしていたり、休息をしていたという見方もあります。どちらが正しいのでしょうか。あるいはもしどちらも正しいとしたならば、その両者の関連性はどうなっているのでしょうか。

これはいずれも正しいと言えます。どのような関連性になっているかと言いますと、例えばAという人生とBという地上での人生との間に、木星に滞在していたという場合、太陽系の中における一惑星としての木星に物理的に滞在していたというよりも、意識の世界における、言わば木星意識という意識状態にいたという意味なのです。

ヒトはすぐに三次元世界的な捉え方をしたがります。それで「どこに、いつ、どのように」というのがすぐに出て来てしまいます。そうすると木星に、そのAとBの間の中間生でいたという風に言いますと、木星人の一人として、そこを地球上での生活のように、体をまとって生活をしていたという風に受け取りがちです。けれどもそれは正しく捉えてはいません。肉体は無いと言えます。中間生においてです。少なくとも肉体はありません。もっと精妙な体はありますが。肉体が無い以上、別の精妙な体があっても、物の次元における三次元の制約からは、かなり自由な状態にあります。

という事は、木星に滞在していたと言っても、この世的な三次元の制約までは受けていないという事です。つまり、肉体の無い別の体で、もっと高次の次元において木星に滞在していたという意味ですから、結局もっと意識の領域においての生活というか、過ごし方になっているという事です。それで結局、木星に滞在していたという(これは一例ですが)そのような場合は、この地球上での生活のようなあり方というよりも、もっと意識の領域において、木星意識とでもいうような意識状態に、その間あったという風に捉えるのが正しいのです。金星ならば金星意識の状態に、その間、留まり続けたというような意味合いなのです。

意識の世界にいても、それなりの学びや気付きは伴います。ただその意識状態にあったというだけではありません。その意識状態にありながら、色々な事が起きても何ら矛盾はきたしません。それで一方で、例えばエドガー・ケイシーのように、現世での暮らしと暮らし(つまり一人生と一人生)との間の中間生は、惑星滞在であるという風に言っても、あるいは一般の心霊科学や宗教において、霊界(正しくは魂界と言うべきですが)、霊界に行って修行しているという場合でも、どちらも正しいという事になり、その間に矛盾は無いという事をいま説明しました。そして関連性も含めて大まかにではありますが説明しました。

このように意識の次元で肉体は無い、しかしアストラル体以上の体は持ちながら、この地上生活とは別の修行に取り組んでいるという事が言えます。

さて、いきなり霊界に行くのではなく、冥界とでも言う、呼ばれるべき領域に先ず向かいます。仏教用語で言い換えるならば、中有の世界です。宗教で説いてきたものは、正しいものが含まれています。ただ表現が宗教的なものを用いているという事だけなのです。たとえ表現がそうであっても、それが空想であるという風に単純に片付ける事は出来ません。表現は非科学的でも、内容は科学的である場合もあるからです。逆の場合もあります。つまり表現は科学的なものを用いていても、内容自体は科学的とは言い切れないものもあるのです。

もちろん誤謬も宗教で説いてきたものの中には大分混じっています。また今の科学のように統一性がないために、同じ事を色々な表現を使って、それぞれの宗教が説いているところが、そのジャンルあるいは領域の科学に未だ成りにくい難点となっています。ただいろんな宗教や神話の中に、それぞれ大切なものが伝えられて来ている事は確かなのです。それらをこれから整理して行かねばなりません。統一宗教を造るという事ではなく、宗教を科学にするためにです。それによって万人のものに成り得るからです。

しかし、個々のものの良さや特性を損なうようなやり方をしてはいけません。例えば三途の川と言った場合、それは何なのかという事を、それを通して生命力を喚起するという意図等を損なわせずに、その生命や効果を保持しつつ、科学的に解明していくという取り組み方を取って下さい。ただ事実を解明するという事で宗教の世界に踏み込みますと、事実は解明されたものの、宗教の生命という、宗教の最も大切なものを損なう、あるいは失う危険性を孕んでいるからです。あるいはそのようなところに気付きませんと、事実の解明すらおぼつかないかもしれません。

このような事を言いますのは、決して、いま質問している者がそのような事に気付いていないからではなく、このリーディングは、これからこのリーディングに触れて行くであろう方々、一般へ向けてのメッセージであり、情報となっているからです。それで用語の統一あるいは整理という事が、先ず科学化するという方向で必要な一部になってくるでしょうが、その際、このような事が考慮に入れられなければいけないという事なのです。さてその上で、もう少し見て行きましょう。

霊界においての意識の階梯というものがあって、それは太陽系の惑星に対応させる事が比較的容易なのです。それで水星意識とか土星意識とかといったように、意識の領域をその特色やレベルに応じて、霊界における生命体(特にヒトという種)の生命の意識形態やその状態、そしてレベル等も、太陽系の惑星に対応させて説明しやすいという事があります。それでエドガー・ケイシーは「木星にこの間は滞在していた」「CとDの転生の間では金星にいて学んでいた」などという風に表現したのです。もしそうでなければ、ずっと体をまとって、この地上での人生のように過ごし続けなければならず、それでは息が切れてしまいます。やはり中間生の第一目的は休息にあるのです。

私たちはよく次のたとえでお話します。輪廻転生の経過は、一日の経過と似ているということです。夜の眠りの時間帯が霊界での暮らし、あるいは休息に対応し、昼間起きて活動している間が肉体をまとって働いたり、過ごしたりしているのに対応するという風にです。仮に24時間のうち8時間夜眠っているとします。そうしますと残り16時間は起きて働いたり、学んだり、人々と一緒に語り合ったりしているものです。このとき、地上生活は昼間の活動時に相当し、夜眠っている間が中間生に相当します。厳密ではありませんが、大雑把にはそのように捉えられると言えます。夜眠っている間は、ただ休んでいるかと言うと、そうでもなく、昼間とは別の学び方をしているのです。それで霊界の過ごし方も積極的な意義や効果があると言ったのです。

先ず癒しの効果というのが中間生には強いと言えます。夜熟睡できると、体調が戻りリフレッシュして朝気持ち良く目覚められます。それと同様にある中間生で良好な過ごし方が出来ると、気持ち良く目覚められるというか、良い感じで誕生でき、つまり健康体として元気な赤ん坊が出産されるという事です。逆にひ弱な子として生まれて来た子は、その前の中間生で、寝不足のような事があったという風に類推できます。原因は一様ではありませんが、大まかにそのような事が言えます。それで生まれ方を見れば、その前の中間生の過ごし方がどのようであったかが、大方推測が付くというものです。

では中間生をどのように過ごせるかというのはどこで捉えられるでしょう。それは前の現生、つまり地上での生活の過ごし方によって規定され、あるいは方向付けられると言えます。もっと言えば死に際によるのです。いわゆる大往生でも遂げられれば、中間生に入って行って、より良い中間生を送れると言えます。大往生の瞬間に、その生涯が集約されて象徴的に現れます。その意味では、死に方によって中間生が規定されるというのは、広くはその人生全般によって、次の中間生を自ら規定しつつ日々生活していると言えます。このように地上での人生が、その後死んでからの中間生の内容やレベルや状態を規定し、今度はその中間生が、次に転生してきた時の人生を規定したり、方向付けたり、内容をそのようなものに予め造り上げていったりという事をしています。

ヒトは自己規定型の存在であるというのが特徴で、これは自由意志があるからこのような事が起きるのであり、このように規定する際の作用をカルマと言います。カルマは何も地上生活の間で作用するばかりではないのです。あちらの世界、つまりあの世にまでも、もつれ込んで行きます。この世とあの世を含めたところで作用している法則なのです。そしてそのような規定をする際、特に一つの人生のあり方は、死に際に集約されて現れるという事、それで狭く捉えれば、死に際で次の中間生が分かるし、それで規定されると言えるのです。また次に誕生する時に、中間生での過ごし方が集約されて出て来るという意味では、生まれ方を見れば、中間生が大掴みに捉えられるという風に言えます。しかし広く捉えれば、中間生全般の過ごし方が、次の地上生活全般を彩るという風に見るべきです。

さて、もう少しプロセスの中で具体的に見ていく必要があります。例えば死に方についての質問。他には死んでからどのような事があるのか。例えば「人生においての事を相手の立場で体験させられるのか」といったような事も含まれて来る筈です。それらについては以下のご質問に応じて言及されていく事でしょう。

【質問2
中間生について、さらに細かくお伺い致します。
死の瞬間についてお伺い致します。先ず、死の正しい定義についてですが、死とは体から霊・魂が分離することと考えておりますが、それでよいのでしょうか。

【ソース】
大まかには正しいと言えます。ここで補足するならば、霊は分離しますが、魂の全ても、それに伴ってそこから開放されて、全てが霊と共に体から分離されて、中間生へ行けるという訳ではないという事です。霊は全て行けますが、魂は一部携えて行けないものが残ります。それは体と共に失われます。それで魂をアストラル体とエーテル体という風に分けたのです。アストラル体の方は霊と共に向かって行けます。それに対し、エーテル体の方は肉体と共に解消してしまいます。とは言え、肉体とエーテル体の運命は同じではありません。また一方、霊とアストラル体とは引き続き存続するとは言うものの、霊とアストラル体との行く末も同じではありません。その辺は分けて考察されねばなりません。

さて、肉体やエーテル体は物質界に還元されていくのですが、この際、注意しておきたい事は、分離すると言っても、元々別のものが分離して別々に還るという事ではないのです。肉体というものは自分の一部なのです。何か西洋の宗教や哲学の捉え方ですと、先ず客観的な物というのが在って、その周囲にいろんな霊魂が漂っていて、その物質の一つに、ある霊魂が宿る、あるいは入って来るなどという捉え方が強いと言えます。けれどもそれは当たっていません。むしろ肉体というのは、霊魂が自分の中から造り出した作品だという事です。物質というものの由来は元々そのようなところがあるという事です。

もし物質の他に霊魂という精神体があるならば、これは哲学的には二元論という事になります。けれども実際は一元論が正しいと私たちは見ています。これを当てはめるとどういう事になるかと言いますと、元々精神しかないという事です。それと並列して物質があるのではないという意味です。むしろ物質というのは精神から生み出されて来たという事です。精神が物質化したのが、物質という意味です。それで精神の方が上位に位置しています。そして現象世界は真の実在ではないという事になります。そして並列する二つの客観的な領域ではないという事ですから、霊魂が物質を造り出し、且つ規定している事で、両者には繋がりがあります。

それで肉体から分離するという場合、それは元々関係のない客観的な一物質に宿っていたものが、それから抜け出たという風に去って行くのではない、という事を言いたかった訳です。そのようにもし捉えているとしたならば、それは正しい捉え方ではありません。確かに去って行く訳ですが、元々無関係なものに宿ったものが、やっと開放されて、そこに肉の塊だけが残るというのではないのです。物理的領域における物を材料として、魂が肉体を造り出すという風にも言えます。しかしその繋がりを自ら断った時にそれは物と化します。

さてエーテル体はどうなるかと言いますと、エーテル体は誰のエーテル体という風には言えないところがあります。エーテル体は幾層かに分けて捉えられます。先ず個人のエーテル体があります。これはその生命体独自のものです。それに対して、もう少し広がりのあるエーテル体というのがあります。ちょうど意識が幾層もの階層をなしているようにです。たとえば集合的無意識は個人の意識を超えたものです。超意識はさらに普遍的です。だからと言って、個人が全くそこに無いかと言うと、そうでもなく、個人のものもそこには関わっているために、個人の意識の一部として、集合的無意識や超意識もその人のものだという事でもあり得るのです。

それと同様、エーテル体も個人のエーテル体としてあるとは言え、狭義の厳密な意味での個人のエーテル体というのが先ずあり、その他に家族のエーテル体というのがあるのです。そしてそれでもなお個人のエーテル体ともなっているという事です。なぜならその個人は家族の一員であるからです。さらに民族のエーテル体というものもあります。そして人類というか、ヒトというのを保持するエーテル体というのもあるのです。

家族のエーテル体というのは何かと言いますと、先祖からの遺伝を通しての、主に肉体レベルでの先祖の遺伝が、さらには記憶も引き継がれて行くという事で、この家族のエーテル体がその役目を担っているのです。それで遺伝の法則とこのエーテル体が大いに関連しているという事が分かります。それに対して生まれ変わりという場合は、アストラル体や霊の方が主体となっているという事が分かります。先祖からの遺伝を見ていくのか、そうではなく個人の実体の生まれ変わりを見ていくのか、それによります。

さて遺伝は記憶とも関わりがあります。俗に言う先祖の記憶というものもこのエーテル体によります。また集合的無意識というものもこのエーテル体と大いに関わりがあります。また各民族には文化というものがあります。民族特有の文化を造り出しています。それは民族のエーテル体の反映なのです。動物の場合は群魂というのがあって、このエーテル体主体になっています。ヒトのエーテル体はそれらとはやや違っています。ただ同系列ではあります。

ともかく家族のエーテル体がその家を形成し、昔は日本でも家社会と言って、家単位であり、あるいは部落単位、村落単位であって、そのグループや種族の長(おさ)は、そのエーテル体を治めるというものが本人の中にあったという事で、そのような役割を果たしています。しかしこのような傾向は弱まって来ています。それは人々が進化を遂げて、エーテル主体からアストラル主体に移行して来ているからです。もう少し行けば、霊主体あるいは自我主体に成りつつあります。もっとも「自我」と言っても、アメリカの個人主義のようなものは、高いレベルでの個人の自覚ではなく、アストラルに下りて来ている自我の、個の目覚めに過ぎません。

ヒトの死後、エーテル体はエーテル体のそれぞれの階層に置いて行かれます。それはそれで独自のもので独り歩きしているからです。では個のエーテル体はどうなるのでしょう。個人の記憶は携えて行けないのでしょうか。携えて行けません。しかしそのエーテル体も、本人の本体であるところの霊やそれに付随するアストラル体と繋がりが有り続けます。そして個人レベルのエーテル体を分離したとは言え、消失する訳ではなく、それは存続し続けます。それでよくアカシックレコードに行きますと、本人の本体が地上に生まれ変わって来ていても、本人の個人のエーテル体はアカシックレコードに留まっていて、独り歩きをしているかのように映じます。それで、それが一つの実体のように振る舞うのです。そうすると通信できます。生まれ変わっていてもです。

それは生き物のように振る舞うのです。心もあるようにです。それは生命体、エーテル体ですが、記憶体と言っても良いものです。しかしこのエーテルレベルの記憶は、ヒトの記憶の一部です。従ってエーテルレベルのリーディングをするのは、浅いリーディングになってしまいます。それにしてもエーテルから記憶を取り出すという事が出来ます。このエーテルを上位の次元で統括しているのが聖霊とキリスト教の方では言われている働きなのです。それで聖書の中には次のように記されています。「聖霊をあなた方に贈る。この聖霊の働きかけで、あなた方が必要なものなら、何でも想い起こす事が出来るようになる。」という風にです。

このエーテルレベルの記憶というのが、肉体の脳との関連が密であります。そして普通これが記憶と呼ばれており、モーゼはヒトのエーテルと、特にユダヤ人の民族エーテルに同調するのが得意だったので、創世記からのいわゆるモーゼの五書を記す事が出来たのです。

【質問3
今、エーテル体という話が出ましたので、それに関連して少しお伺い致します。エーテル体は、家族のエーテル体、民族のエーテル体、ヒトのエーテル体という風なものがあるというお話ですが、例えば企業とかあるいは個人の集まりのグループという風なものが出来ると、それに応じて新たなエーテル体が形成されるという風に考えてよろしいのでしょうか。

【ソース】
ほぼ正しいと言えます。グループ単位のエーテルというものも一応あります。ただしかしながら、あくまでエーテル体の単位は、血の繋がりというのが基盤にあるという特色を有しています。それで個人の次は家単位、そして部族や村落(特に昔ながらの部族や村落という血族同士の集まりの事です)、そして種族や部族から民族、そしてヒトに至ります。グループというのはカルマや理念等によって結び付いているので、エーテル体は形成されますが、特殊なエーテル体と言えます。一応可能です。それで同族会社が企業のレベルとして発展を遂げるには、この根強い基本的なエーテル体のあり方から、脱皮を遂げさせるという事を起こさねばなりません。それで経営コンサルタントの人たちは、そのエーテル体の転換あるいは上昇、進化と言っても良いでしょうが、それに一役買っていると言えます。なかなか同族会社のレベルから脱するというのは大変なものです。

企業も大企業になりますと、今度はグループ単位のエーテル体をも、脱皮させるという手続きを踏まねばなりません。そうすると、もう公のように、それは個の特色、広い意味での個ですが、それがもうそこには見難くなって来るのです。大企業はもう国公立のようなものに殆ど近くなって来ます。それで大企業の社員はもう公務員のようになってくるのです。そうするともっと大きな規模での意志や意向というのがそこに作用するもので、それだけで独り歩きして行くようになり、どこかに属しているというのが殆ど失われて来るのです。

しかし中小企業のレベルですと、やはり何かの癖というか、一つのカルマとか、特徴とか、ある個人の強い願いとか、思い入れが根強く尾を引いて行きます。そしてそのような中でエーテル体は強く作用し続けます。大企業になりますと、これが脱ぎ捨てられています。そこが大企業と中堅企業の決定的な差だと言えるでしょう。

エーテル体は文字通りの意味でも広い意味でも、個を保持するというので、個の思い入れとか、願望とか、理念とか、目標というのが強く結び付いているのです。それに対してエーテル体を脱した大企業においては、もうあまりそのようなものが無く、公的になってしまうのです。そうするともうあまりCI(コーポレート・アイデンティティー)とか、社標とか、会社のマークとか、会社の使命とか、そういうものが無くなって来ます。特色も少なくなって来ます。

民族は特有のものが有りますが、混血という事がなされて来ますと、エーテル体に変化を起こす事が出来ます。それで混血というのは(国際結婚とかですが)、エーテル体に錬金術的な変化を起こす鍵です。それはシュタイナーも述べています。それによって愛が異質なものへと変換されて行くという事です。ただの変換ではなく、進化に向けての変換という事です。エーテル体は根強いものを持っているので、それを打ち破るのにはそのような道があります。

いわゆるカルチャーショックはこのエーテル体に基づくと言えます。エーテル体はと関係しており、エーテル体は生命体の事であると言いました。しかし今回はその生命体に、記憶というものや血族関係での絆というものが、大きく関与しているという特色を有する事を伝えています。なぜならこれが中間生に大いに関わって来るからです。中間生にエーテル体は持って行けないと言いました。同時に一方ではそれが中間生に大いに関与すると言いました。その辺の関わりを見て行かねばなりません。ただ今回は質問が待機しているために、全般的にカバーしていく事が先行するかと思います。

【質問4
死の瞬間について、もう一つ追加で質問させて頂きます。現代医学では体の死というのは、心臓停止あるいは脳死という二つの考えがございますが、それと体からのアストラル体あるいは霊の分離というのはどういう風に関連しているのか、お答え下さい。

【ソース】
エーテル体はオーラとして通常捉えられます。死ぬとオーラが消えるのです。それで分かる事は、死ぬという事はエーテル体が肉体から去って行く事なのです。エーテル体があるゆえに、肉体は生きていられます。肉体を生かさせるもの、それがエーテル体です。それで死んでるか、生きてるかは、エーテル体が肉体に留まっているか、離れてしまったかによって分かります。それが目安です。エーテル体が肉体から離れかかると、臨終がいよいよ近付いたという事になります。それで死にかかって来ると、エーテル体が肉体に固定して居られなくなり、出たり入ったり、ともかく不安定状態に陥ります。よく一度死んだけれども、また生き返ったというのは、このエーテル体が一度殆ど離れたけれども、どこかまだ繋がりが保たれていたので、エーテル体が肉体の方にまた重なり合って来られたという現象です。

ではもっと肝心の霊やアストラル体はどのように動いて、死と関連しているのでしょう。直接肉体の生死に関わるのはエーテル体の方であります。そしてそのエーテル体の動き如何で、霊やアストラル体という上位のレベルは、行き方、向かい方を決定します。直接はこのようにエーテル体が鍵を握っているという事です。上位の霊やアストラル体は素直にそれに従います。それで霊やアストラル体がどう動くかは、直接人間の生死には関わりを持ちません。死ぬか生きるかはエーテル体の動きいかんに係っているという事です。それで死んだか、まだ生きてるか、回復する見込みがあるかどうか等に関しては、エーテル体だけを考慮に入れれば十分です。エーテル体が完全に離れ切った時に、それを見届けて、霊とアストラル体はその肉体を後にして、霊界へと上昇して行くという事です。

もう少し厳密に言い換えねばなりません。元々霊は肉体に留まっていません。肉体の外に有ります。もっと正確に言いますと、外とか内とかという事ではなく、霊というのは、時間や空間という三次元の枠からは全く自由な、絶対的なあり方として存する訳ですから、中も内もなく、ただ在るというあり方なのです。それで離れるも戻るもありません。その人の本体である霊は去るという事はありません。最初からそこに居ると言うよりも、本質として、それは三次元の典型である肉体からは、全く自由なのです。元々自由でありますから、繋がっているとか、繋がりが断たれるという言い方は相応しくありません。

アストラル体となると、また別です。アストラル体の方は三次元の制約をある程度受けているからです。しかし繋がりはあっても、それから比較的自由です。心はいろんなところへと馳せ、飛ぶ事が出来るのです。想いは遠くに及びます。だからアストラル体は大きく広がりがあるという特徴を持っているのです。従っていつでも行き来が自由です。その証拠に夜夢を見ている時は、自由自在に肉体を置いて、心は想いを馳せて、自由に飛び交うのです。夢は、簡単に言ってしまえばアストラルトリッフなのです。夢はアストラル主体のものです。それで死を待つまでもなく、アストラル体は自由に肉体を離れる事が出来るという事です。それで結局エーテル体のところに戻って来ます。

心臓が停止した時の死と脳死とで、どのような違いがあるかというのを見ていきますと、まず心臓が停止するのは典型的にエーテル体が体から離れ去ったという事なのです。では脳死の方はどうでしょう。脳死の方はアストラル体が離れたと言っても良いでしょう。これは分かりやすく大雑把に言ったものです、が、しかし、ほぼそうだと言えます。では先程述べた「夢を見ている時は死ななくても自由にアストラル体が飛び交っている」というのと、どう関連しているのでしょう。と言いますのも、夜夢を見ている時は、夢を見てアストラル体が肉体から離れていても、脳は停止していないからです。脳波は下がりますが、脳死にはとても至っていないからです。

夢でも熟睡して来ますと、夢を見ているレム睡眠状態を止め、夢も見ないような熟睡から昏睡状態に至り、脳波が段々下がって来ます。そしてさらに来たらば、いわゆる死という事になってしまう脳死に至る訳ですが、そこまで行くとアストラルトリップも出来なくなります。それは完全にアストラル体が肉体と切れたという事です。このようにアストラル体が肉体と切れた時、それが脳死が訪れたという事です。こうなるともう戻って来られません。

それに対して心臓停止というのは、エーテル体が肉体から去ったというだけの事ですから、エーテル体は比較的容易に肉体に戻れますから、また息を吹き返すという事も可能性として残されているという事です。霊は先程言いました通り、元々肉体から自由で、それそのものとして実存していますから、これらには一切関わりがありません。従って考慮に入れる必要はありません。

[追補]
アストラル体は、盆の窪ところで肉体とつながっており、銀のひも(シルバーコード)で肉体と結ばれています。それで夜夢をみている時、魂界(アストラル領域)にアストラル体が行っていろいろ体験して、朝になると、このつながりで肉体へ戻って来られます。ところが、ここのつながりが断たれるとあちらへ行ったきりとなり、つまりは死んでしまいます。これが脳死です。三途の川を渡ってしまったということで表徴されます。盆の窪がそれほどまでに重要だというのは、試しにその個所に細いハリ一本を刺しただけで人は即死に至らしめられてしまうことでも分かります。(浅野記 1996.11.21